予定には2種類
①欲求、希望、願望
②義務、責任、命令
に分けられるのでは…!?。
①は自発、②は受身
①はやる気ごっついある、②は「なんかなぁ~」みたいな感じ。
でも①が忙しさや疲れなどから②に思えることがある。
日時などが正確に決まってしまってその日が迫ってきたりする時。
「あー、やるんじゃなかった」「あー、言うんじゃなかった」
未定が確定になることで、変な責任が生じる。だから面倒臭くなる。
夢を語っているうちは楽、実行に移そうとすると困難にぶつかる。
あれこれ考え予定を立てる、だけど達成できない。
欲を最終的に重荷に感じない生き方を出来る人。
生きることを楽しいと感じれる人。
すんげーと思う。
もっと、もっと強くなりたいっす!!!
木曜日, 3月 27, 2008
金曜日, 3月 21, 2008
卵が先か鶏が先か
「あーーーしんどい、全てを放りなげたい!!」
と思ったことはないですか??
人はみな何かしら「やらなアカン事」を日々持っていると思います。
ひとつ終わったと思えば、「あっ、あれまだや」みたいに。
そこで先日どうやったら今の状況から無い何もない状況
「うわ、なーんもすることないわ!!」
を作れるか考えました。
単純に思いついたのは、
誰も知り合いのいないような異国の地に「ぽーん」っと行ってしまうことです。
要は本当に「全てを放りなげた」状況です。誰にも文句も言われません。
そこでふと気付きました。
きっとこのようになるのではと、
「あーー、やっと開放された!!好きなことしよう。OOして**して、%%やって」
または
「あーー、やっと開放された!!環境整えな。OO買って**探して、%%もいるな」
そう、結局また予定を立てるのです。
多分生きている以上、人は何かやることを見つけ、そこから縛られ、解放されるために動き、そこからまた何かを見つける。
このサイクルの繰り返しの中で喜怒哀楽を楽しんでいるんだなと思った飲んだ暮れの夜でした。
と思ったことはないですか??
人はみな何かしら「やらなアカン事」を日々持っていると思います。
ひとつ終わったと思えば、「あっ、あれまだや」みたいに。
そこで先日どうやったら今の状況から無い何もない状況
「うわ、なーんもすることないわ!!」
を作れるか考えました。
単純に思いついたのは、
誰も知り合いのいないような異国の地に「ぽーん」っと行ってしまうことです。
要は本当に「全てを放りなげた」状況です。誰にも文句も言われません。
そこでふと気付きました。
きっとこのようになるのではと、
「あーー、やっと開放された!!好きなことしよう。OOして**して、%%やって」
または
「あーー、やっと開放された!!環境整えな。OO買って**探して、%%もいるな」
そう、結局また予定を立てるのです。
多分生きている以上、人は何かやることを見つけ、そこから縛られ、解放されるために動き、そこからまた何かを見つける。
このサイクルの繰り返しの中で喜怒哀楽を楽しんでいるんだなと思った飲んだ暮れの夜でした。
忍者と侍
2週間ほど前の話。
友人にロックバンドのライブに誘われ、開始時間まで飲み屋で飲みながら待っている時のこと。
「日本に忍者はまだいるのか??」
とういう話から
「忍者と侍はいったい何が違うんだ??」
と言う話になった。
正直かなり苦戦しまぢた。
1、いい単語が出てこない。
2、具体的そして単純明快な説明が上手く出来ない。
3、自分の知識が本当に正しいのか不安
日本語でもなかなか上手く説明できるのか正直不安になりました。
僕らは小さいころから、テレビや本などから「なんとなくのイメージ」を両者に持っているため、多少の言葉不足でも通じるのが現状だと思います。なにより感覚的に違いを把握しているとのだと思います。
人とのコミュニケーションにおいてこの「共有的感覚」がいかに大事な要素を持っているのかをすごく感じた一幕でした。
話は変わって、先日中学校の学習指導要領案に目を通しました。
その中で驚いたことは、国数英理社の5教科のうちで3年間で最も授業数が多いのは
「英語」
3年間通じて420単位、次に国数理の385単位、最後に社会で350単位。
ちなみに平成14年(6年前)の改正では一番多かったのは、国語で350単位。
これは僕の勝手な意見です。「義務」教育を謳っているのであれば、やはり「立派な日本人」を作るべきで、それなら英語よりも母国語である国語をしっかり学ぶべきだと思います。いくら世の中が国際化してきたと言っても日本国内で使うのは「日本語」なわけで。
言葉の乱れは心の乱れ
我が祖先の方々はうまくいっておられると切に感じる次第です。
二つのことから僕が感じたのは「国際人」とはいったい何かということです。
英語が話せるのが国際人なのか、英語を使って外国人に「日本」を説明できるのが国際人なのか。
僕は後者であると思います。
であるなら、まず日本語でモノもろくに説明できない人が英語で説明できるのか…。
やっぱり人間日々学習ですね!!
友人にロックバンドのライブに誘われ、開始時間まで飲み屋で飲みながら待っている時のこと。
「日本に忍者はまだいるのか??」
とういう話から
「忍者と侍はいったい何が違うんだ??」
と言う話になった。
正直かなり苦戦しまぢた。
1、いい単語が出てこない。
2、具体的そして単純明快な説明が上手く出来ない。
3、自分の知識が本当に正しいのか不安
日本語でもなかなか上手く説明できるのか正直不安になりました。
僕らは小さいころから、テレビや本などから「なんとなくのイメージ」を両者に持っているため、多少の言葉不足でも通じるのが現状だと思います。なにより感覚的に違いを把握しているとのだと思います。
人とのコミュニケーションにおいてこの「共有的感覚」がいかに大事な要素を持っているのかをすごく感じた一幕でした。
話は変わって、先日中学校の学習指導要領案に目を通しました。
その中で驚いたことは、国数英理社の5教科のうちで3年間で最も授業数が多いのは
「英語」
3年間通じて420単位、次に国数理の385単位、最後に社会で350単位。
ちなみに平成14年(6年前)の改正では一番多かったのは、国語で350単位。
これは僕の勝手な意見です。「義務」教育を謳っているのであれば、やはり「立派な日本人」を作るべきで、それなら英語よりも母国語である国語をしっかり学ぶべきだと思います。いくら世の中が国際化してきたと言っても日本国内で使うのは「日本語」なわけで。
言葉の乱れは心の乱れ
我が祖先の方々はうまくいっておられると切に感じる次第です。
二つのことから僕が感じたのは「国際人」とはいったい何かということです。
英語が話せるのが国際人なのか、英語を使って外国人に「日本」を説明できるのが国際人なのか。
僕は後者であると思います。
であるなら、まず日本語でモノもろくに説明できない人が英語で説明できるのか…。
やっぱり人間日々学習ですね!!
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