金曜日, 11月 23, 2018

ひ・み・つ

新しいもの発表する時、それは世の中の人に知れるとき。
練習の必要でその過程を経るものもあれば、思い浮かべたアイディアを実践で試す時が本番の時もあると思う。

棋士・羽生善治名人が2006年のNHK・プロフェッショナルの中で、初めて使う手を森内名人との対局で使い勝利を収めた。その後にこの手はもう通じないと思いますと語っていた。

僕がラクロスをしていた大学生時代、公式戦で使うフォーメーションや作戦を練習し時に練習試合言う名の実践で試したりする。練習試合の相手は試しても影響のない相手だ。だから、どこと試合してるとかは相手がスカウティングしに来ることもあるので秘密だったりするだろう。実際に当時なんてどうやってそんな情報を得るかなんて限られている。だから時に仕入れた情報を元にスカウティングにうちにチームとして出かけて行ったことがあったような記憶がある。

それを思うと、今の時代はそんな「練習試合などで試すこと」は果たしてどこまできるのだろうか。個人や団体として情報をSNS上がったりして見つけ出すことはそこまで難しいことではないように思える。それが組織としてしっかり専用の練習場など囲い込みが出来てない限り。

そんなことを思いながら、この世で最初に披露するし「ぎゃふん」と言わせることは個人でない場合に現在どこまで可能なのかな。

何かを作り出すことって意外な面で難しさがあるなと思ったのでした。
これは秘密でない秘密のアッコちゃん!!この一文は忘れてくれー。。。

水曜日, 11月 21, 2018

2018年32冊目(325)

スター・ウォーズによると世界は 単行本
キャス・R. サンスティーン  (著), Cass R. Sunstein (原著), 山形 浩生 (翻訳)
早川書房 (2017/11/21)

常々サブカルチャーは時代を反映するものだと感じてきた。それは作品群がどのような影響を受けたかを時代の変遷と重ねながら論考する色んな本を読んできたからだと思う。ウルトラマンや仮面ライダーシリーズなどを扱った本。食文化やアニメなどに関するのもあった。
そんな中、継続する作品として長きに渡り(現在も進行形で)世代を超えて語られるこのスターウォーズに関するこの本は正直他とは違う印象を感じた。

著者がこの物語の面白さや深さをあの手この手と多角的に解釈してゆく。マーケティング、政治経済、憲法論、文化論に道徳・宗教・家族論。逆にスターウォーズを使っていろんな出来事の理解にも使うという。となんとも守備範囲が広い。大谷選手ではないがまるで投げても打ってもである。メタファーにアナロジーに。隠喩的な解釈の仕方が多彩にできてしまうのだ。はじめに(P15)にある「スターウォーズは現代の神話である」というのがそれの象徴かも知れない。

現代の政治状況を理解するにはとて良い教材のように僕は感じた。トランプ大統領は生まれてしまったダースベイダーなんて視点で話を書けそうだし、実際に本の中ではレーガン革命や2008年のオバマ陣営の選挙戦をスターウォーズで説明しているし、実際なるほど思って読んだ。

ではジョージルーカスが最初からこの神話をすべて書いたのか?そこがミソで
ある。最初の構想がよかったのは間違いないが、よいオチに沿ってストーリーが膨らんでいった側面も間違いなくあったと思う。まるでお題に応える大喜利のように。だからこそ人々はこの話で「ああだったら」と2次創作で楽しむこともできるのかもしれない。

ここまで来て何が言いたいかと言えば、スターウォーズすげー!って事ではない(すごいのは事実やけど)。
最初のエピソード4が公開されたのが1977年。そして最新作は2017年。伝統を守りつつ最新の技術を加えながら40年も続く話だからそれだけ接点があるのだろう。かつ時代も廻ってきたんのだろう。

こんなモノを今後どうやって作るか。今後も残すか、いや残せるか。
商いにも研究にも創作にも文化にも応用できるのではないかと。物語や理念など言われるがそれは作るのか生まれるのか。そういった視点に目を向けるために今一度スターウォーズなのかもしれない。僕そう思ったのだ。
敢えて言うと、今も続いているキン肉マンは日本のスターウォーズなのかもしれないと思ったの事を最後に加えておきたい。

一日で全話コンプしたいけど飲みながら観たくなると思うと。。。
僕にフォースを!!

火曜日, 11月 13, 2018

筋力と有酸素と体重

テクテク歩くことが多いついこの頃。ラップトップや本などがガッチリ入ったリュックを背負って日常歩いてますが、家に帰ってまたは出かける前にテクテク歩きに行くことも。最近は後者の場合は軽い鉄アレーを持って歩いています。

この鉄アレーwalkingの際に思った事「歩くって結構腹筋を使ってるなー」って意識が出来て、やっぱり走るって全身使うことになるのかなどつらつら考えていました。そこで、今日はしっかり走ってみようと。
歩くときに負荷をかけてくれた鉄アレーにありがとうを告げ走り始めて数分。なんじゃこら、全く負荷を感じない。
さらに数分、息は切れ汗は流れ、走ってる感は満載なんだが全く負荷を感じない。
さらに数分、あの負荷は鉄アレーあっての事で歩く・走るの行為では発生しなと認識。
Uターンして帰宅。鉄アレーを手に取り走らずに歩く。
おーーーなるほど!!負荷あるやん!!

そして歩きながら色々考えた。

体重が重い人のダイエットはジムに通って筋トレに励んだりハーハー息を切らせながらランニングなどせずに、せっせと歩くだけで十分よいのではないかと。
体重の重い人が仮にやたせた人と同じ筋力だったとしたら、歩くだけでやせてる人より何十キロという負荷を乗せて歩いているのと同じだろう。それは息も切れるししんどいに決まってる。
50キロの人に50キロ持って歩くけ!と言ったらもう少し軽いのからでええんちゃうとなるが、その50キロがそもそも肉体に備わっていたら(肉襦袢みたいなものだ)どうもこうも無い。

体重が減り筋力に変わっていくある時点にきっと肉体的に最適解があるんだろう。それ以降は、筋力に見合った負荷が必要になるから。
それでいくと、筋力のない痩せた人がジムに通うのが一番理にかなっているように思う。最適解としては、多少歩くといった程度の日常の活動に過度の苦痛が無い人は軽くジム通いで良いのかもしれない。
走らんでも歩くだけで十分に自分の身体を知れそうだ。さっきの体重の重い人ではないが下手に走って膝を痛めたなんて愚の骨頂なのかもしれない。

いや、おっさん!!鉄アレー持って走れよ。。。あ、ホンマですねー!!

水曜日, 11月 07, 2018

2018年31冊目(324)

the four GAFA 四騎士が創り変えた世界 単行本
スコット・ギャロウェイ (著) 渡会圭子(訳)
東洋経済新報社 (2018/7/27)

僕はこの本を読んで全くぞっとしなかった。でも人によってはそうなのかも知れない。そして、その中に情報流出とかプライバシーが言ってる人がどれぐらいの割合なのか知ってみたい。

便利とはなんなのか? タダより安いものは無いし、無料という言葉に弱いのは人間の性である。その場合「質」に文句をつける人はいない。だってタダだから。その態度は実際に正しいのだろうか?
この本で4騎士とされる企業のもをこの世の中で一回も使ったことない人はどれだけいるのだろう。実際にいると思う。ただその人たちは一度どれかに触れた時点で0度以下で静かに冷やされた水が刺激で一気に氷るようにように、この四騎士に取り込まれてしまう気がする(リーチすると言えばカッコいい)。
それぐらい当たり前に日常に溶け込み(ユビキタスといえばカッコいい)、便利という名で色んなモノと紐づけされてる(ネットワーク化といえばカッコいい)現状を認識しないといけない。防犯カメラによる監視社会どころの話ではない事を。でも誰も多くを語らない。なぜなら、便利だし無いと困るからだろう(社会のインフラとなるとカッコいい)。
僕はテクノロジーに取り込まれていることを受け入れている。だからぞっとしなかった。けど改めてその使い勝手に(ユーザーインターフェースといえばカッコいい)躍らされて、便利さを安心感のように感じ使っている(ロイヤリティと言うとカッコいい)使いこなしている。

そして、現実に使いこなしている姿はクールでカッコいいのだから仕方がない。

ドラゴン桜で桜木先生は「搾取されたくなかったらルールを作る側になれ」といった。
これは搾取とは思わない。でも搾取みたいなものだとは思う。
で、ルールを作る側になるには今のルールを知る必要がある。だから、言えるのはぞっとせずに読んだ方が良い。もう遅いから。使いこなしてるのでなくシステムに取り込まれ飼いならされストロー効果のように自分の利便性以上の果実を吸われているかもしれない事実を知るべきだ。本の中でもあるが親や恋人や友人よりも自分の欲望や好奇心に満ちた言葉を受け入れて答えているのは四騎士で、彼らは僕をよく知っている知りすぎているんだ。ああ恥ずかしい。

実際にルールを作った人たちは「出来ないであろうことを、創造し表現し口にして無理と思わず実行した」から出来たのだ。絶望と希望は紙一重なのかもしれない。僕は希望と楽しさに乗っかりたい。そして可能な限りこの便利さを使いこなすしのが、せめてもの抵抗だと思う。
あ、忘れてた。4騎士は酒飲めない!その点で勝ったちゅーねん。。。

木曜日, 11月 01, 2018

2018年30冊目(323)

空間へ (河出文庫) 文庫
磯崎新  (著)
河出書房新社 (2017/10/5)

最近てくてく歩くのだがふと自分の生まれ育った地区を歩いてみようとぐるりと回った。当時あんなにも大きく感じた街は今の僕の視線と歩幅では容易に歩ける町だった。地震と台風のせいでビニールシートが掛った屋根、補修中の家、人の気配の無いボロボロの長屋などが思ってる以上に多くて驚いた。近所の家々も売りに出たり解体して更地への作業中だったりこの災害の大きさを感じた。そして、思った。日本ではヨーロッパのようなリノベーションは向いていない。木造と石造の根本的な違いを痛感した。耐久性・解体性・可燃性の差。それは先日ベルギーの石畳と城壁の残るの町並みを実際に歩いたから余計にである。そしてこの本の「世界のまち」を歩く前に読んだからこそ注意深く街を観察できたのだと思った。

建築やデザインに関してずぶの素人の感想なので何とも言えないけど、この本は終盤の「年代記ノート」からが筆者の胸の内を感じる醍醐味であると思う。
ただ、1960年から始まる記述の中で感じたのは、焼け野原となった(あえて上の言葉から言えば焼けたから生まれた)日本の中に蠢くエネルギー的なものと街・都市の持つ空気感があるからこそ建築論の面白さや深さが生まれたのかなと。

僕には記されている論や考察など今の時代の話として十分に語られ議論されても良いような内容に感じた。ただ広告の看板・電気エネルギー・モータリゼーションという部分が時代なのかもしれない。看板はサイバーに、自然エネルギーや省エネといったクリーンという議論(快適な生活の基礎を支える必要な不可欠な電力需要の話が全く議論にならず語っていることが僕には馬鹿らしくて仕方ないが。。。)、カーシェアリングや自動運転に車を持たない世代へと、建築やデザインの対象となる存在は変化しているのかなって。

今も当時も同じような「混沌とした時代の空気感」があるように思うし、建築やデザインへの期待やエネルギーを僕には感じる。けど、成長してゆく都市と成長しきった都市というベースの違いが大きな差かもしれない。今こそタイトルある「空間へ」なのかもしれない。

今の日本は木造だったから作れたんだと。古い街並みを残すことにヨーロッパの事例を引き合いに出すのは実は間違っているのだと。で、今の日本のビル群は木造的に捉えるべきなのか石造的に捉えるべきなのか。おもしろい観察対象ができました。
この新たな認識を持てた事は僕にとって新たな建築でありデザインとなった!!!なーーんて、言うてみた。。。