日曜日, 2月 28, 2016

6th book on 2016(236)

「ノニ」―医師である私の命を救ってくれた植物 単行本
橋爪 勝 (著)
ごま書房新社 (2012/09)

ノニと言う植物。知りませんでした。とても興味深いなと。
漢方薬が生薬の組み合わせであるように、昔オリーブオイルは薬のように飲まれてた歴史があったり、自然の恵みの植物の特性を知り上手に摂取すること。とても理に適っている。サプリメントとして。

注意を喚起したいのは、筆者は「サプリメント」とこの「ノニのジュース」を呼んでいます。それは僕たちが思い浮かべる錠剤のそれとは意味合いの違うものであることを頭に入れなければいけません。自然の果実から作られたものであり、工業製品でないということ。

レモンから摂るビタミンCと化学的に作られたアスコルビン酸としてのビタミンCを区別するように。その辺のことを言及してくれると筆者の意図はもっと浸透すると思いました。
この辺は消費者も勉強しないといけない理科の延長としてのライフサイエンスの知識であると。

薬との違いの説明はなるほどそうだなと改めて考える良い機会でした。病巣の究明と対処療法。チームバチスタ2の救命での話が思い出されました。
ネットなどでどんな薬か容易に調べられるご時世なので、面倒だけと小さいアクションで今何が自分の身体で何が起こっているのか薬から学べますね。

福島第一原発の事故の時、放射能の議論がたくさん当時なされましたが薬も同じだと思います。「ただちに影響がない」と言う言葉のように「すぐに効くとは限らない」「効果には個人差がある」など。
人はどうしてもゼロサムを求めてしまいます。でも調子のいい日と悪い日がいつも極端ではないように、常に変化と平衡を行き来しながら日常を過ごすのを無意識ながら受け入れ生きながら生活するように、薬・サプリメント(ここでの意味はノニや錠剤を含んだ広範なもとして)と付きあえたらいいですね。

ノニ。一回飲んでみようかな?なノニ、ビールを頼む僕。哀れなり。。。

木曜日, 2月 25, 2016

5th book on 2016(235)

高学歴女子の貧困 女子は学歴で「幸せ」になれるか? (光文社新書)
大理 奈穂子 (著), 栗田 隆子 (著), 大野 左紀子 (著), 水月 昭道 (監修)
光文社 (2014/2/18)

読後感を書く筆がこんなに重いと感じたのは初めてです。
ここで描写されている現実。著者たちの体験談。これらは紛れも無い事実であり否定するつもりはありません。

僕としては「高学歴」「貧困」「女子」というキーワードから構成されるフォーマットを転換させることで問題への新しい光が差すと思うのです。

僕は海外での生活が結構な長いのでこちらでの高学歴女子たちを目にする機会が圧倒的に多いです。
今の現場は男女比半々。あるラボは6人に対して女性が4人。いつも全体的に女性が多い気がします。
この本で議論となる博士号取得者を高学歴と定義しても、この本での描かれているような虐げれ方は僕の感じる範囲では感じません。

学会などにでても女性は比較的多いと思います。僕の知っている生命科学の分野は。彼女たちが貧困かどうかの判断は難しいですが、この本での議論となる「高学歴女子の貧困」がしっくり来ない理由はそのへんにあります。

あとアメリカはヨーロッパでは学問を習得すること、そしてその行為に対して敬意や尊敬があるように感じます。大人になって学校に大学院に進む人もたくさん見ました。
博士号取得者への考え方は日本のそれとは正直全く違う気がします。ただ、彼ら彼女たちが貧困かどうかの判断は難しいです。

それは外国だからという結論を出す以上、この手の問題は一切解決しないでしょう。
なぜ日本にそういった土壌が無いのか。どっちの感覚がずれているのか。その辺を精査してどうすれば変われるのか。あるいは変われない現状を受け入れて日本独自の空気感を醸成するのか。
僕も真剣に向き合わないといけないと思います。なぜなら「僕のような性格の人間が日本で幸せになれるのか?」という個人的な新書(問い)を日本に戻る場合煮詰めないといけないからです。

子育てに対する環境も日本と欧米での違いが確実にこの本で書かれてる実情に与するでしょう。
日本という国への問題提起として僕はこの本の現状を受け入れたいです。
巷のポスドク問題や高学歴女子への議論に収めて読んでいくとなぜか腹が立ってくるので。。。
俗に言う駄目な結論なのかもしれませんが「自己責任論」や「現状を受け入れること」と言ったことを僕はある程度自己の信念として持っているからです。

安倍政権の掲げる国民総活躍社会(あまりこのフレージングは好きでないですが)を実現するなら、フレームワークやフォーマットとといった僕たち自身の価値観や信念との戦いが必要だと僕は思います。

3章の明治からの女性が教育を受ける環境の整備というか変化の歴史が僕にはとても興味深く読みました。当時の先人たちに負けないように変化を現代にもたらすエネルギーが生まれること願います。
男性の僕ですが髪の毛が長いせいで稀に女性に間違えられるのである意味の当事者として。。。

光る 雲を突き抜け fly away

ピンからキリまでという言葉や「本物の味」という表現がある。
XXXの最高峰とかXXXの頂点とかも。
要はその道の突き当たりは極みであると。

その極みを祭り上げる場合もあれば、そことは違う価値を見出す方法もある。
それを愚の骨頂と罵るのまた趣なのかもしれない。

どの場合も「その空気感」を知っているのかいないのかで、説得力や正当性や理由付けなどが揺らいでしまう。
かといって、それをいとも簡単に経験できるような身近なものでないからこそユニコーンのような謎めいた魅惑の存在となりうる。

果てさて向き合うのか無視するのか諦めるのか。個人差があって然りである。
僕はどちらかといえば興味があるけど、そこにこうべを垂れるより違ったモノを楽しみたいし性分です。

昨年末。雑誌Natureに投稿しているグループのお手伝いをさせていただく機会を得ました。
僕は「一本のNatureよりも10本の良い論文がいい」と思っています。それは今も変わりません。でも覗いてみたい場所ではありました。
ヒット10本とホームラン1本という例えが正確かは分からないけど打者のこだわりがそこにあるのと同じように。

退いたその場所は、なんとも質の高さを感じさせるものでした。
その質は研究論文の内容を具体的に指すわけではありません。STAP事件がその象徴であるように。
限られたページ数や文字数の中で表現するということ。図やその色合いの綺麗さや美しさ。これらにガツンとやられました。

この地を常に意識しているということは、これらの作業が当たり前であるということ。頂が頂きたる所以は普通の設定が普通でないんだなと。
僕は図や色合いなどは気を配っていたほうですが、完全に考えを改めても良いのではと。定期的に目を通して基準の底上げが必要だと。目を慣らし肥やすべきだと。

経験できるならやはりその眺望は見ておくべきです。幸いにも高い授業料を払うでもなく、偶然という幸運で体感できたこの出来事。

ご馳走様でした。美食倶楽部おそるべし。。。あれ?やまおかー!?修行がたらん!!

火曜日, 2月 02, 2016

反射してきたシグナルを捉えてみた。

仕事場のまえにある横断歩道。信号が無く右左を見ながら車の運転手と阿吽の呼吸で渡る歩行者。

目と音を使えば当たり前だけど、距離感を感じながらゆっくり渡ったり速足で渡ったり。
そこには運転手の視界に入る歩行者がそこに居るからと言うのもある。

敢えてまた使うが阿吽の呼吸である。

あっ、歩行者いる。 = あっ、車が来る。
歩行者優先ブレーキ掛けます。 = 距離あるし目合ってる渡る準備 。
止まる車 = 歩く歩行者

そこで会釈だったり手をすっとあげたり、少し速足で後ろに車がつまらないように歩く。
いい意味での社会のマナーであり世間との繋がり。


面白い小話を。
車との距離に余裕がありいつもならゆっくり渡るはずが、時間的に急がないといけなくてその距離感を無視してダッシュ気味で渡った時の出来事。
渡る前に車を見た僕。車を認識した僕。僕を認識した運転手。お互いに十分な距離感。
そこで僕がダッシュ。
車もダッシュ!ではなく、ブレーキが強めにかかったんです。距離があるのに。
この感じよくよく考えたら前にもあったんです。でもふと頭が回らなかった。

人は強く反応すれば強く返す癖がある!?
逆にマイルドにいくとマイルドに反応する!?
それは準備と反した時は特に。
あーーー、そうかも!って。
おもしろい!

反射と言う生理的なリアクションが備わっている人体だからこそ、それは日常にも反映されるのかなって。
といっても、普通に物理的な反射の関係ってこれと同じと言えば同じなんよねー、理想的な状況では。

そんなことから、炎上とかもこんな感じのルールで回避できるのかななーんて。
恒常性。動的平行。
生きる速度。考えてみませんか?

飲む速度。考えます。。。