木曜日, 10月 25, 2018

結果に至るまでに

今年のワールドカップの日本対ベルギー戦の2失点目。あの失点に至るまでに小さいミスが重なっていた。まず中盤で長谷部選手のパスが香川選手に当たって相手ボールに、その後のこぼれ球を乾選手がクリアするも外に出しきれずフィールド内にボールが戻り相手ボールに。そして失点。小さいパスミスとクリアミスが続いてしまった。

ドーハの悲劇の最後の失点。NHKの番組でラモスさんが今でも悔いていると言っていたパスミス。ボールキープするか近い距離の安全なパスを選択できたけど、再度を走る選手に出したパスが相手に奪われルーズボール。そこからあの失点へ。

2つとも不用意な中盤でのミスから。だからパスミスをしてはいけないと言うのではない。
結果に至るまでに小さい積み重ねが成功にも失敗にも関わってくるなと。

色々と思い悩む現在。小さい決断を重ねていかないといけない状況でふとこの2つの事を思い出して、今の自分に投影したのでした。リスクをとる所、安全に進む所、しっかり事後処理やケアをする所。よいアウトカムにするために。AIのように頼むで僕の脳みそ!

土曜日, 10月 20, 2018

枠の内側と外側

先日たまたま単行本のゴルゴ13を手に取って読んだ。

僕はアメトーークのゴルゴ13芸人で興味を持ち、アニメとして放映されたゴルゴ13をほぼ全部見た。あまたある単行本は機械があれば手に取るという、ここ数年にファンになったニワカである。

その単行本のある一話を読んでいる途中で「あ、これはアニメで観たやつや!」と気付いた。そしてアニメで観た本編はその回の終盤の話であった。
あの話が始まるまでにこんなにバックグラウンドがあって、しかも濃い国際情勢の話が広がっていたなんて。

原作のドラマ化やアニメ化。その原作を忠実に再現しているものはどれだけあるのだろう?もちろん構成上難しいのもあるであろう。だがそれは言い換えれば、文字を脳内で変換する作業への敗北なのかもしれない。

最近は興味の関係か海外の本が翻訳されたのを読む。ただ英語なら原著を読めないわけではない。一度その原著と訳書の2冊を読み比べることをした本がある。「本を読むときに何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間」である。先に日本語を読んで英語版を読み始めた。この本は本の構成上比較しやすいものだったので、かなり原著の通りで英語の表現を学ぶことが出来た。でも、たぶん2/3ぐら読んだ段階で興味を持った友人にあげてしまった。

原著・原作を手に取り読む。この意識は忘れてはいけないなと思ったのでした。それに呼応するように、ある質問を受けて過去の文献にあたる機会を得たのは偶然だったのか必然だったのか。過去に戻って訊いてみよう!趣旨が変わってきた。。。

金曜日, 10月 12, 2018

阪神タイガースと財務省

金本監督の退任が決まりました。僕としてはあと一年は勝負させてほしかったなと。
采配云々はあると思う。でも生え抜きの若手の数は出てきてるし、正直今年はシーズン前に予定していたであろう打線の軸が全く機能しなかったのは多いな誤算であっただろうし。

これはトップの問題なのかシステムの問題なのか。僕はなんとなく後者の問題がする。阪神戸とい球団の持つ体質というか癖というか。

財務省の文書改ざん問題。あれは改ざんがなぜ起きたかの方が問題で、それが二度起きないようなシステムを構築することが一番大切なはずなのに、責任問題が橋の中心で終わってしまった感が僕にはしてならない。

トップの責任とトップを変えるというのは必ずしも一致しないと思う。
システムの議論をもっとすべきだと切に感じる。

対処でなく根治

今回の辞任を受けて2つを同じような出来事に感じたのでした。
金本さんお疲れ様でした!!

水曜日, 10月 10, 2018

2018年29冊目(322) + 本と映画

自分の中に孤独を抱け (青春文庫)
岡本 太郎  (著)
青春出版社 (2017/4/8)

予定では並行して読んでいる磯崎新さんの本と一緒に感想を書こうと思ってました(磯崎さんのはまだ読み切れていない)。建築家と芸術家。似て非ぬけどある種の交換可能に感じる2つの職。その二を並行して読むことで何か面白いものを感じれるのではと。が変更することにしました。予めだったから。一緒に書き記したい本と映画に今関係する気がしたから。

僕はあまり映画を見る機会を持ててなくてよく映画の話になるとついて行けないことが多い。この一か月ほど長時間の飛行機移動が多く、その中で普段は観ない映画をたまにはと観たのがきっかけで12時間のフライトで4本観たりで計15本も観てしまっている。快挙だ。新作から一世代前のまで。名前は知ってるけど観てなかったのを割とみた。
本を読むのは好きだけど、自分の中で考え消費して落とし込むことが殆どで、人と同じ本について語り合う事などめったにない。人がどんな本を読んでるかなんてよっぽどでないと分からないのが基本で、有名なもしくは売れた小説など以外は「読んだ?」などと聞くことはめったにない。
それと違って映画はなぜか話題になる。時に観てない方が珍しいことも。映画は見た感想を割と気楽に話し時に議論したりで深く共有することが出来る事が多いように思う。評論などでも映画の引用は本よりもされやすいように感じる。AIや広告の最適化の例として「マイノリティーレポート」が引用されているのをよく目にしていたけど、正直昨日初めて観た。これが2002年に2054年の未来として描かれていることに驚いた。なぜなら一部はすでに現実社会に存在している。当時の演者は演じながらどのような感じだったのか気になる。
今回15本も観て映画の持つメッセージ性や問題提起の力をとても感じた。そしてそれが友人や人と話す共通の材料になりうる。本を読んで発する言葉も映画を見て発する言葉も内から出るものだけど、それが人にリーチして返りがあるというの上での映画の価値はおもしろい。

そして、この岡本太郎さんの著書。遮二無二生きろ。現状維持せず進め。悩みもがけ。世間の常識や権威を疑え。自分と何か考え詰めてろ。どう生きたいか思い描けそして実現ししてしまえ。怒号のような彼の声が聞こえてきそうです。実際に彼はその筋を通そうと懸命に生きた。芸術家というより活動家だったのかもしれない。166ページから「受け身でなく、積極的な気構えで鑑賞する」とういテーマが始まる。そして次の項では「すなわち鑑賞する、味わうというのは、実は価値を創造することなんだよ」と。映画や本の読み方で己の価値・解釈を作ってみろと。映画によって僕が感じた人々との語らいはこの作業があってこそで、その会話を通じまたさらに自分と向き合う。それは岡本太郎が求める闘争の一つであってよいはず。

日本にいる日本人もきっとそのように生きているんだと思う。でも外から自国をみたらいい。外に自国を語ればいい。出来るなら。世界と話せるのがすごいんじゃなくて、考える上で世界も参考にできることが一歩であると思いたい。それらをつなぐからメディアなのだろう。メディアを使い倒してやりたいなと。その1つ映画を見る時間を増やしたいなと思ったついこの頃でした。はい、ピンク映画ももちろんです。

月曜日, 10月 08, 2018

2018年28冊目(321)

話芸の達人 ―西条凡児・浜村淳・上岡龍太郎― 単行本
戸田学 (著)
青土社 (2018/8/23)

よく人間の才能や能力を議論する際に出る遺伝か環境か。
大阪人のしゃべりが達者なのは小さい時からお笑いの文化があるから。
などなど、環境の要因の話はよく語られますが人に影響を受けるというのも大事な要素で。

凡児先生の話は初期のパペポで触れられているのを聞いたけど、実際にその人となりを知ったのは今回が初めて。そして、関西の朝の声の代表である浜村さんの事もちゃんと知ったの初めて。そしてそこには影響を与える側と受ける側の関係が至る所にあった。
あと時代背景として、落語に浪曲などがもっと日常にあり漫才も今のような漫才コントのようなのもではなくきっと「じゃべり」が主体であったのも、一人話芸の達人を生む環境だったのかもしれない。あと視聴者の顔が見えないラジオという場がその鍛練の場として今以上に身近だったのもあるだろう。169ページに「凡児=落語、浜村=浪花節、上岡=講談といった三通りの芸脈が流れているのが面白い」と。今なら身近なのは落語だけなのは時代なのかもしれない。面白かったのは田原総一朗の司会ぶりを話芸として評している所。あの方の司会は確かに政治芸なのかもと腑に落ちたのでした。

さて、今後このような話芸の達人が生まれるのか?僕の答えはイエスな気がする。
原点に触れる作業をネットが容易にしてしまうだろう。映画・Blade Runner 2049のなかで生身の人間とバーチャルとどっちが好きなの?的な下りがあった。VRを駆使しすれば今は亡き談志師匠の落語をあたかも寄席に居るように聞ける日が来るかもしれない。現に人間国宝の桂米朝師匠のアンドロイド(米朝アンドロイド)が高座で落語をするプロジェクトは存在するわけで。感化された自分がそれを話す友達がバーチャルだったらそれはきっと虚構なのかもしれないけど。

話芸。なんだかんだで喋ってなんぼなスキルやけど、単純明快な作業だからこそその上手さは人を魅了うするんだろうなと。あえいうえおあお。。。