木曜日, 2月 28, 2019

認知度

先日の朝、ある待合室で流れていたテレビ。日本テレビ系列の朝の情報番組。その中の一つの話題で「2018年M-1グランプリチャンピオンの」の言葉が流れる。他局の賞レースのタイトルが普通に使われている事に改めて「おっ」っとなった。

時に他局の番組や他局自体の話を番組でする時はXXXの方にある局だのYYYが司会の番組だったり宣伝になるか局内のコンプライアンスなのかオブラートに包む光景をよく見聞きする。なのにM-1はもう市民権を圧倒的に得てバンバン使われている。紅白歌合戦のように。何がこうさせたのか。

それは
1)グランプリを勝った人たちが本当に実力があって
2)グランプリ自体の認知度が圧倒的で
3)番組出演者がそこで勝つことに本当にリスペクトをしている
からかなと僕は思った。

1)その後の活躍は見ての通り。ただ第一回大会に出た演者たちはホンマに賞金くれるかすら怪しい半信半疑の番組。演者以上に視聴者や業界の人がこのコンテンツの凄さにタマゲタのではいかと。
2)演者の活躍に付随しての要素が大きいとは思うけど、オブラートに包むことが馬鹿らしいぐらいの認知度になってしまった。
3)今のテレビ番組で芸人さんが出てない番組は本当に少ないのでは。報道に近い番組でもMCだったりコメンテータだったりで出演している。立ち位置的に芸人さんからタレントさんになった方々もいるだろうけど、漫才を作る難しさとあの競争を感じられるからグランプリ後は皆さんがおめでとうと祝福するし言及する。

そんな演者さんが多い番組構成だから必然的に時間が割かれる。それは昔の音楽番組全盛期で紅白が大きな話題だったように(今も大きいとは思うけど)。芸人さんやタレントさんがテレビ番組への露出が減って映画俳優ばかりになったら違う賞レースが世の中を席巻するのかもしれない。

世の中に出るにはインパクトは必要だけど、その後も出続け認知されるまで進むにはストックを持ち合わせておかないといけない。これは僕の身近で世に出て行って活躍と認知度を上げている人たちを観察して感じた。マーケティングなんて言ってるけど、これが無いとマーケティングしてもそのデータは生きないと思う。このことに気付かず、マーケティングに文句を垂れている人は意外に多いんちゃうかと。

M-1の日本中の認知度もこの法則に合ってる、いや友人たちの活躍はM-1と同じなのかもしれない。

顔と名前と仕事を覚えてもらって一人前が自己のコアとしたら、印象と座敷と在庫と抱えて一人前が自己を取り巻くレイヤーになるのかな。
ちょっと我ながら良い分析。ってはよ自分に応用せんかいな。。。それそれ!!

2019年5冊目(333)

時間と自己 (中公新書 (674)) 新書
木村 敏  (著)
中央公論新社 (1982/11/22)

日々の日本語の表現の中で「こと」「もの」という言葉を使っている意識は常にあって時に「事」と感じにしたり「モノ」とカタカナにしたりして、自分が表現したい対象を示してきた。ただこの2つが示す対象が捉えている実態は何なのかなんてと言う考えなんて一切思いもよらなかった。
「から」や「まで」が何から始まってどこまでなのか。未来とは過去とは。それを認識する自分の存在に対する時間とは。これらの理解を深めるために、自己と時間のバランスが不幸にも崩れてしまった病を患った人たちの時間の捉え方を観察し考察する。当たり前の何が当たり前かを知る作業。こんな発想があるのかと唸った。

生きるとか今とか死ぬとか一体なんや?宗教とか科学とか芸術とかで語られる理解を超えた何かを読んでるような体験。「はー」とか言いながら分かっているようで多分分かってないやと思う自分。日本は昼でアメリカは夜でヨーロッパは朝で、時刻がずれてるけど同じ惑星の上に居てとか、日本を3日の夕方に出てアメリカ着が3日の昼前とか。これってよう考えたらなんやねん?
takeやhaveを辞書で調べたらアホほど訳の種類があって、持つを英訳してもhaveの時があればtakeの時も。100%の一致なんてない。空間を言語や記号で切り取った時に生まれる溝っていうけど、そもそも切り取るとか空間自体がどういうことやねん!

何か新しい見方に気付くような期待感を持ったけど、表現できるか?表現した時が理解なのか。恩師がバイブルのような本だと著書の中で書いていて手に取って、そこで仰っていた深さを知り、自分の浅さを感じた。きっと、またどこかで読まないといけないけど、次回手に取る時はどんな「時」になっているのか。いや、その時があるのか。見上げているのか見下ろしているのか。
とにかく今出来る事をやるしかないと思ったのでした。それでも、人は怠惰になり文章にするまで数日。なんとも自分が嫌いになると思いながら「好きとか嫌いとか」ってなんやと。

全てがお題で大喜利やーー!!座布団10枚目指して頑張ろう!!

火曜日, 2月 26, 2019

2019年3-4冊目(331-2)

ジャイアン2.0: 四次元ポケットの作り方 Kindle版
尾倉 侑也  (著), 山田あきと  (著)
Amazon Services International, Inc.

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める! Kindle版
苫米地英人  (著)
コグニティブリサーチラボ株式会社 (2014/4/14)

ジャイアン2.0という名前が面白くて手にとってみました。
要はシェアリングエコノミーの未来とネットワーキングも可能性の実体験をです。それを若い筆者たちが臆する事なく進む姿に希望を持つ同世代は多いかもしれない。

彼らはネット世界を四次元ポケットと捉え、シェアリングエコノミーにおける共有を「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」と言うジャイアン的発想から発展させて「俺の物はお前の物、お前の物は俺の物」としてジャイアン2.0とした。
面白い相対化だと思う。ただ四次元ポケット的な便利さまで議論するならオフラインという考えを入れて欲しかった。ネットに繋がらなくなったら何もできない。この限界がある以上四次元ポケットには遠く及ばない気が僕にはする。なぜなら、四次元ポケットはドラえもんの腹部から自由に取り外すことが可能で誰もが使える(洗濯もできる!)。道具はドラえもんを離れても使える。ここまで踏み込んでほしかった。
ジャイアン2.0という考えも「俺の物はお前の物、お前の物は俺の物」となる点でジャイアンらしさが消えている。かつみんなで作っていくような要素があるので僕にはジャイアンβの方がしっくりくる。
細かいかもしれないけど、面白いネーミングだからこそここまで練ってほしかったのが僕の感想である。

成功体験は一例として希望を与えるけど誰もが同じようにしても上手くいくとは限らない。その反面、失敗体験は同じミスを繰り返さないための財産となるので共有する価値が非常に高く汎用性が高い。
その轍を踏むと苫米地さんの現状の閉塞感の分析からの打開策の提言の方が応用力があると言える。ただ、これを実行するには意識改革が必要でそれが出来てない現状に向き合わないと始まらない。

ゴールやコンフォート・ゾーンの新たな設定などは以前読んだ「習慣の力」にも似た考え方。正しく認識するから原因を正しく理解でき正しい行動や考え方が生まれる。この認識の枠に他人の目や常識・感情などが関わっている現実を理解でき変えれるか。この一歩を踏み出せるか。この本を手に取った人を観察してみたいなって思いました。その小さい作業・ひと手間が出来ない人が大半で、日々それを言い聞かせて動いている自分がいるからです。

改めて自分の認識を認識する再認識作業をできた気がしました。
さらに、この本のStep3にある「これまでの自分」というゴミを捨てるの項で議論される過去や未来に関する記述が次の感想に書く「時間と自己」にリンクしているように認識できて自分の高揚を認識したのでした。

って、認識認識うるさいなー!!!って、それを認識してるのか!!!
って、四元ポケットの中はどういう認識なんやろう。。。

2019年3-5冊目(331-3)に関して

ジャイアン2.0: 四次元ポケットの作り方 Kindle版
尾倉 侑也  (著), 山田あきと  (著)
Amazon Services International, Inc.

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める! Kindle版
苫米地英人  (著)
コグニティブリサーチラボ株式会社 (2014/4/14)

時間と自己 (中公新書 (674)) 新書
木村 敏  (著)
中央公論新社 (1982/11/22)

一見まったく違うような3冊なんですが、何根底に共通するものがある気がしました。それは考え方の転換または意識化だと思います。
ただ今回ここに記したいのはこの3冊を並べた時に感じた事。良い悪いではなく、レベル・ランクというのはあるのだなと。上下の表現より物足りなさや満足感とした方が良いのかもしれないけど、この感覚が生まれる過程にはその人が持つ知識や読解力といった力量が絶対に関係すると僕は思うのでレベルとしたい。

ジャイアン2.0は面白いけどどうも軽さや青さが残るライトノベルのようで、「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!(以下苫米地本)は著者の本を多少読んでるのもあって僕には馴染みかつ再認識を導くものであるが人によっては自己啓発本の実践系とでもなるかもしれない。
時間と自己(以下時間本)は久々にガツンと脳を稼働させてくれた。正直あと2、3回読み込まないと理解も程度は上がらないかもしれない。ただまったく考えもしなかった切り口を与えてくれて、自分のプロジェクトや周りの出来事を再考する気かけになりそうなインパクトだった。

人によってはあるいは昔の自分だったらジャイアン2.0で時間本のような感動を得ただろうし、苫米地本をすっと読み切れる体力があったからこそ時間本を手にとってみようとなった可能性は高い。いきなり興味と好奇心だけで時間本を手にしていたら読み切れたとしてもどんな感覚に陥ったのかは興味はあるが、おそらく途中で本棚の肥やしになったのではないかと想像に難くない。
読書経験・体験という言うものがどいうものかを実感として考える機会を得たのは、この3冊をこのタイミングで同じ時期に続けて読む事が出来たから偶然。読者層とか誰に向けて書くとか執筆側と読者側の関係を意識したのは初めてでとても面白かった。Kindle unlimited のサービスというきっかけによって生まれた出来事は記しておきたい。定額サービスへの考察も必要だ!

で、各本の感想は以下のように分けて書こうと思う。
後半へ続くー!!って誰が興味あるねん!!

木曜日, 2月 07, 2019

2019年2冊目(330)

ゲンロンβ32 Kindle版
東 浩紀  (著), 沼野 恭子 (著), 土居 伸彰 (著)
株式会社ゲンロン (2018/12/28)

かれこれ5, 6年前ぐらい毎月文藝春秋を買っていた。毎月こういった月刊誌をちゃんと読めたらさぞ知識と教養が身に付くのではないかと。果たして、ささっと流し読みや本棚の肥やしとなってしまった。
このゲンロンβ32は代表の東 浩紀さんが巻頭言「等価交換の外部へ 」で自身に起きた困難に関して記している事を知り、その詳細を知りたくて買ったのが主の理由でこの本の感想には件の文藝春秋同様加えないでいるつもりだった。

しかし、「ゲームにおける反復と追体験(前) 土居伸彰+吉田寛+東浩紀」がとても面白く思うことがたくさんあったので残したいということでカウントしてみた。

ゲームと言う存在への批評とゲームをするという事。全く関連してなさそうだが、似たゲームが出たりゲーム内に他のゲームのパロディーが出る事を通じて僕たちはゲーム間の関係性を捉えて文句や感嘆をあげる。
子供でもできるいたって純粋な行為だけどこれが大事な姿勢なのかもと思った。アニメなどの二次創作も同じような出来事だけどデジタル・プログラムという再現性に富にで複製が容易だからこそ、面白い存在なんだと。

映画のような感じ方以外に体験そのものという要素があるゲーム。プレーヤーごとのスキルでクリアまでの時間や手間がちがう異なるプレイ経験にも関わらず同じゲームについて語れてしまうと言うのにはなるほどと思った。それは旅にも言えるかもしれない。どこに行った的な。

そしてこの経験を触覚ととらえタッチパネルや「RT」や「いいね」を押す行為にまで広げることで新しいメディアを考えるというのはとても深い!

このゲームの経験が追体験いう話題に触れた時に「あ、書き残そうと」と決めたのである。何かを介することによって本文の言葉を借りると「他社の生を生きること」になる。

twitterを見ていて「賛否両論の『ボヘミアン・ラプソディ』5回見てわかった「ラスト21分」4つのウソ 映画は嘘をつくから素晴らしいのだ」という記事に出会った。この映画が史実と異なる部分がある事は言われているのは知っていたし、僕自身はそれを突き詰めたからといってどうやねんという考えだった。なら読まなければ良いのに読んでしまった。感じたのは同じことだが、確信したことがあった。
この映画は追体験そのもだという事。
映画を観ることは同時に自分がQueenを知り理解し共感する事なのだと。この「うまく出来た再現性」が追体験へ引きずり込むから感動するんだと。

昔あったゲーム・コナミワイワイワールド。コナミのキャラクターが勢ぞろいですべてのゲームをした気分になった。
立川談志師匠の死後に放映された情熱大陸の中で、高座に上がった師匠がたくさんの古典落語が散りばめられた噺をする。
このオムニバス的な体験も追体験と共に人(特に知ってる人)を引き込む要素ではと。
料理人・菓子職人・研究者などは再現性を通じて追体験をすることを経るから、人に新たな追体験の機会を与えられるような作品や発見を生み出すことが出来る。
そんな追体験の感動もやがて慣れとなりそこにある景色になってしまう。人間とは贅沢な生き物だ。

後半、まだ読んでない。。。この追体験はどうしよう。。。

土曜日, 2月 02, 2019

冷たさと冷たい?相対と絶対

昔からよく手が冷たいと言われ、「手が冷たい人は心が温かい」など言っていた。
最近握手などで手を握った時に僕の方が温かい人や場合がある。「こっちが温かい時は冷たいし、いつも逆」と言われたのがきっかけで思った。
自分が冷たい・相手が温かいのは相手があっての感覚だから体感のそれと実態の温度とは乖離があるのではと(とはいってもかなり体感と実態には相関があると思うが)考えたのだ。氷点下数十度の外に比べたら冷蔵庫の方がが温かいのと同じように。

日本人は手先が器用だという言説は海外で生活したり外国人と働いたことがある人なら実感はかなりあると思う。僕自身も感じることは多々ある。
でも先の話。手の温度の相対と絶対からこの事象に関しても見方が変わった。
「日本人の手先が器用」とういうより「外国人に手先が不器用な人が多い」方が正しい捉え方なのではと。
なんでこれが出来ないかね?なんて思うことがあったりする。「できる自分がスゴイ(出来ないのが普通)」とするか「出来る自分は普通(できない方がおかしい)」とするのか。

こんなの言葉遊びのようだけど、これは「尊敬語や謙譲語」という表現や「能動と受動」という主体の根元ではないのか?なんて。
この2つをうまく使いこなせると意識の変化や相手への配慮など感じる世界が格段に豊かになるのではないか?なんて。
帰納と演繹に相対と絶対は近いのかな、なんて
最近よく意識する対処と根治とは少し毛色がちがうのかな、なんて。

アジアカップの決勝で負けた日本代表を絶対で評価するのか相対で評価するのか。僕はW杯がゴールと考えたいので相対的にみて考える機会をたくさん持てたとても有意義な準優勝だと思う。
マスコミはいつも絶対的な気運が高い気がする。受け手が相対的な立場でいること。これがメディアリテラシーなのかもしれない。相対の幅を広げる作業・インプットを続けたいです。

今の自分の手。相対的に絶対冷たい。今日は外寒いがオレも寒いぞ!!!