木曜日, 2月 28, 2019

2019年5冊目(333)

時間と自己 (中公新書 (674)) 新書
木村 敏  (著)
中央公論新社 (1982/11/22)

日々の日本語の表現の中で「こと」「もの」という言葉を使っている意識は常にあって時に「事」と感じにしたり「モノ」とカタカナにしたりして、自分が表現したい対象を示してきた。ただこの2つが示す対象が捉えている実態は何なのかなんてと言う考えなんて一切思いもよらなかった。
「から」や「まで」が何から始まってどこまでなのか。未来とは過去とは。それを認識する自分の存在に対する時間とは。これらの理解を深めるために、自己と時間のバランスが不幸にも崩れてしまった病を患った人たちの時間の捉え方を観察し考察する。当たり前の何が当たり前かを知る作業。こんな発想があるのかと唸った。

生きるとか今とか死ぬとか一体なんや?宗教とか科学とか芸術とかで語られる理解を超えた何かを読んでるような体験。「はー」とか言いながら分かっているようで多分分かってないやと思う自分。日本は昼でアメリカは夜でヨーロッパは朝で、時刻がずれてるけど同じ惑星の上に居てとか、日本を3日の夕方に出てアメリカ着が3日の昼前とか。これってよう考えたらなんやねん?
takeやhaveを辞書で調べたらアホほど訳の種類があって、持つを英訳してもhaveの時があればtakeの時も。100%の一致なんてない。空間を言語や記号で切り取った時に生まれる溝っていうけど、そもそも切り取るとか空間自体がどういうことやねん!

何か新しい見方に気付くような期待感を持ったけど、表現できるか?表現した時が理解なのか。恩師がバイブルのような本だと著書の中で書いていて手に取って、そこで仰っていた深さを知り、自分の浅さを感じた。きっと、またどこかで読まないといけないけど、次回手に取る時はどんな「時」になっているのか。いや、その時があるのか。見上げているのか見下ろしているのか。
とにかく今出来る事をやるしかないと思ったのでした。それでも、人は怠惰になり文章にするまで数日。なんとも自分が嫌いになると思いながら「好きとか嫌いとか」ってなんやと。

全てがお題で大喜利やーー!!座布団10枚目指して頑張ろう!!

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