土曜日, 2月 02, 2019

冷たさと冷たい?相対と絶対

昔からよく手が冷たいと言われ、「手が冷たい人は心が温かい」など言っていた。
最近握手などで手を握った時に僕の方が温かい人や場合がある。「こっちが温かい時は冷たいし、いつも逆」と言われたのがきっかけで思った。
自分が冷たい・相手が温かいのは相手があっての感覚だから体感のそれと実態の温度とは乖離があるのではと(とはいってもかなり体感と実態には相関があると思うが)考えたのだ。氷点下数十度の外に比べたら冷蔵庫の方がが温かいのと同じように。

日本人は手先が器用だという言説は海外で生活したり外国人と働いたことがある人なら実感はかなりあると思う。僕自身も感じることは多々ある。
でも先の話。手の温度の相対と絶対からこの事象に関しても見方が変わった。
「日本人の手先が器用」とういうより「外国人に手先が不器用な人が多い」方が正しい捉え方なのではと。
なんでこれが出来ないかね?なんて思うことがあったりする。「できる自分がスゴイ(出来ないのが普通)」とするか「出来る自分は普通(できない方がおかしい)」とするのか。

こんなの言葉遊びのようだけど、これは「尊敬語や謙譲語」という表現や「能動と受動」という主体の根元ではないのか?なんて。
この2つをうまく使いこなせると意識の変化や相手への配慮など感じる世界が格段に豊かになるのではないか?なんて。
帰納と演繹に相対と絶対は近いのかな、なんて
最近よく意識する対処と根治とは少し毛色がちがうのかな、なんて。

アジアカップの決勝で負けた日本代表を絶対で評価するのか相対で評価するのか。僕はW杯がゴールと考えたいので相対的にみて考える機会をたくさん持てたとても有意義な準優勝だと思う。
マスコミはいつも絶対的な気運が高い気がする。受け手が相対的な立場でいること。これがメディアリテラシーなのかもしれない。相対の幅を広げる作業・インプットを続けたいです。

今の自分の手。相対的に絶対冷たい。今日は外寒いがオレも寒いぞ!!!

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