水曜日, 5月 18, 2011

無限の中の点

今しがた書評9を書き終えて、ふと自分のFacebookとtwitterに目を通す。

ここ(ブログ)に書く内容は結構自分にとって「大きな思考法」だったり「○○論」だったり覚えている方である。
でも、上の二つで過去にさかのぼった投稿を大雑把にでも把握できることは…。

facebookにおけるlike。twitterにおけるRT。
これらは「その時の印象・感情」が大きく作用するものではないか?
facebookのポストは基本的に(設定によるけど)友人間における発信
twitterは誰が見るか分からないけど、荒野に向かって自分の考えを140文字という制限の中で叫ぶ。

言ってしまえばお手軽感のハードルはかなり低いのではと思う。
もちろんこれが政治家やジャーナリストの方々やるページは該当しない可能性が高い(RTに対するコメントなど100%とは言えないけど)。

でもウェブという場所には残る。
もちろん紙の情報ではないので、残ると言う言葉の使い方は難しいけど。
その「残る」と言う現象に対して少し考えてみるのは面白いのではないだろうか。

以前このブログで書いた記憶があるけど、
youtubeや動画サイトはテレビでも不用意な発言やいい加減なコメントさえも残してしまう。本のように校正が無い「言葉」が記録として残るようになった。
といった趣旨のコメントを書いた。(今から探す!)

金曜日, 1月 30, 2009の記事:動画と言うなの記録
それを踏まえて、普通に使っているこれらのツールの違う意味での「意味」を気付けたかもしれない。

脳のなかで思い出や記憶として「しか」残せなかったモノ・コト。
日常の中で目にしない限り思い出さなかたモノ・コト。

案外忘れられたモノ・コトまで残ってしまう、いや残せてしまうのかもしれない。

記す…。深いなぁー。

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