水曜日, 7月 22, 2015

30冊目2015(216)

藤子不二雄論: FとAの方程式
米沢 嘉博 (著)
河出書房新社 (2014/3/6)

物心ついた頃の金曜日の食卓の記憶。リモコンのないレトロテレビがまだ幅を利かせていた時代の時から現在まで。水戸黄門ほどの型はなくとも安定感と言う名の印籠をお腹に張り付いたポケットに忍ばせるハットリ君。。。ではなく、ドラえもん。

僕はこのドラえもんを起点とした藤子不二雄をしか知らなかったわけで。

この本を手に取って人に歴史ありと言うか、ドラえもんが立っている地面の下で眠っている作品群の深さに正直驚嘆しかありませんでした。

作品は時代と読者と共に歳をとる。僕が藤子作品と歩んだ時間のスケールはあまりも小さく、僕よりも上の世代の方が思い入れが入ってる漫画家さんなのだと。
果たして、そんな話を両親を含め上の世代から聞いたことが無なっかた。聞かなかった僕もいるのでなんと言えない部分はあるが。言われてみれば白黒の怪物くんを観た記憶もあれば、僕が目にしたタッチとは少し違った”古さ”や”時代感”を纏った漫画のQ太郎・ハットリ君・パーマンを見た記憶も。
そう、売れたのが言うてしまえば最近なのだと。ある意味で、この売れ方との元々の読者のギャップが無知の原因だったのではと、ポジティブに考えてしまう。

FさんとAさん。アップルやグーグルの例にもれず、2人ペアなのだ。
そしてライバルであり戦友の存在が赤塚不二夫、石ノ森章太郎、つのだじろうと言った面々。でもって、師は手塚治虫。

お笑いの世界やサイエンスの世界でこの手の環境を基に弾けた分子を思い浮かべることできるので、ある種の方程式に容易に興味が進んでしまう。この本が僕にとっての面白味なのはその点かもしれない。

テレビと雑誌の需要。特に小学X生といった媒体。そこからコロコロコミックと言った流れ。時代性はあるけど、漫画と言う方法論にこだわった藤子不二雄・両氏に尊敬を。
ストーリーと絵の妙。ストーリだけでも大変だし、絵・画だけでも大変。そこにギャグや時代性を反映させ。SF的要素を混ぜたり。

器用貧乏の極地なのかもなんて。もちろん売れてはいたと思う。でもドラえもんと言う極の前を見る限りは、ある意味自由度のある好きなことをできる人生だったのかなって。
最大の贅沢が創作という。

だからこそ、ライバルや環境や師匠や時代性など。
僕の今は何なのか。そしてどう”したい”かなって。

風通しの良い生き方。良いとか悪いとかでない。通気性やフェアとか。
表現と想像の自由度を抱えて漂流したいですね。

この気持ち、お笑い漫画道場にでも通って極めるか。。。いや、でも笑点の大喜利も捨てがたい。。。
チャラーー、Yoshi OUT... いや、ホンマちょっとほくそ笑んだだけですやん。。。

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