金曜日, 7月 14, 2017

2017年18冊目(278)

気仙沼に消えた姉を追って 単行本
生島 淳 (著)
文藝春秋 (2011/11)

取材で気仙沼と東京を行き来するうちに、思わぬことに気付かされた。私は仕事を通して震災を「追体験」することを望んでいるようだった。
「ようだった」と書いたのは、未だに推測の域を出ないからである。気仙沼で育った人間にとっては、震災を直接体験していないことが「負い目」なっていた。私は追体験することで自分に免罪符を与えているのかもしれなかったし、。。。。
本書97ページより抜粋

この箇所が実は僕にとっては肝としか言えない。
震災時にアメリカにいて間接的にもどうしようもない状況。日本人としてあの空気を吸えなかったのは生島さんの言う「負い目」なんだと思う。
そしてその接点が僕にとってはどういうわけか気仙沼だった。
実際に足を運ぶ機会を得たし、猪瀬さんの気仙沼を舞台とした本を読み、この生島さんの本を手に取った。必死に「理解してます」を得ようとしてるのかもしれない。
答えはわからないけど忘れないという想いは太平洋という津波を実際に作った大きな衝立の両端に接点を持った宿命なのかもしれない。できることをなんとか。

そして自分のルーツを辿る。生島さんのお陰で僕もその作業の大事さを思いました。もっともっと話すことがある。もっと知ることがある。
大阪の細かい変遷。地元の変遷。生き字引の言葉。大人になってそれなりに生きていけてるからこそ。拾えるからこそ。淵に立ってようやく気づく人間。強欲な生き物でありなんとも寂しい存在。次回勇気持って聞こうと思います。あんなことこんなこと。

人とは、生きるとは、何ができるのか、何ができるたのか。
震災から5年以上もたった今だから。豪雨やいろんなリスクが存在する世の中だから。今を生きる上でふと立ち止まる歩留まりになる本だと思いました。

気仙沼に次回訪れた時はもっと飲んで現地の空気を旅の人として嗅ごうと思います。クンクン。嫌われないように。。。

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