M-1に関しては明日書きます。
今日仕事の関係で遠心機を使いました。
15分
事実として15分遠心機は回り、待つわたしがいる。
その15分をどのように使うかは自由であり、当人の行動次第で価値は1時間以上になりえる可能性がある。
時間という概念をふと深く考えた瞬間だった。
時間と質との関係。効率。
個々の改善次第でとてつもない「時間」を生み出せるのではないか!?
でも、遠心のように制御できない時間の枠が存在する。
その間でどのように自分はときを感じるのだろうか。
以前に時間の概念に関して書いた記憶があるけど、この遠心機のような「固相化された時間」への感受性を今日感じた。
時間を感じるという概念。
時間を意識する概念。
時間を過ごす概念。
時間とは何なのだ。生を感じること、死へ向かうこと。
存在。自己。
とりあえず目をつぶろう、どれぐらいの「時間」の経過が起きるのか。
飲みすぎはいけませんね。小銭の神様みえるかも…
2 件のコメント:
「遠心のように制御できない時間の枠が存在する。」
この社会も同じ様なものなんかな。
「生きさせられる」
あかんな。
自分を「生きたい」な。
ずっとストレッチを続けてて、
一日の中に少しの時間だけでも、
自分だけの時間を持つ様にしています。
まだ見えない何かを見てみたいな。
>morikichiさん
コメントありがとう!!
「生きたい」。ホンマにそうやね。
常に自分の存在との葛藤です。
見たいと思わないと、きっと何も見えないよ。
だから「まだ見えない何か」見てやろうぜー☆
すっごいチラリズムできたら悶々やけどな笑
良いお年を!!ありがとう!!
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